北海道美唄尚栄高等学校 全日制 総合学科
北海道美唄尚栄高等学校 全日制 総合学科
「お世話になった方が定年退職で送別会があるから札幌に帰る」28日土曜日の夕刻に成田から飛行機に乗り、宴が終わった深夜に帰ってきて我が家で睡眠をとり、翌日の日曜日午前中の便で東京に帰っていきました。朝9時に家を出るという長男を車に乗せ、妻と一緒に新千歳空港まで送りました。転勤がなく札幌で働くことができるという条件で入社した会社ではありましたが、東京における事業の拡充が決まり、「行ってこい」と声が掛かっての異動でした。地下鉄沿線上の便利な新築マンションを引き払って早いもので半年が過ぎようとしています。
私と妻にとって長男がいくつになろうとも子どもであることには変わりはないのですが、私たちの手を離れなんだかずいぶんと遠いところに行ってしまったな、とまるで他人事のような感覚にとらわれている自分がいます。妻はどう感じているのかは聞いていないのでわかりませんが、私には子どもというよりも私と対等な一人の大人という見方が強まっています。
大学を卒業したらあとは自分の力だけで生きていきなさい、その代わり父さんも母さんも子どもには一切頼らないから。これが我が家の決め事です。そのとおり東京のど真ん中で逞しく一人で生きている長男の成長をひしひしと感じます。私が同じ25歳26歳の頃よりも物怖じせずに堂々と歩いているその姿に、いかに自分がなっていなかったかを思い知らされることもあります。
高校受験のことは前に書いたとおりで、長男の場合は恥ずかしいだの行きたくないだのと泣いたところからスタートしたわけですが、そんなことがあったのをみじんも感じさせません。結局、人生の単なる通過点でしかないんだよな、ということを長男が一瞬帰省したときに思ったところです。どこの高校、どこの大学であっても、それが第一志望でなかったとしても、自分が身を置いた場所で精一杯努力し生きていくことが人生の次のステップにつながっていくわけです。
階段に今置いた右足の先に階段はさらに続いています。時間が進むのと同じように人生も進んでいる。だから左足を持ち上げ次の段に足を置かねばならない。そうした瞬間にそれまであった左足の階段はもう過去のものになっている。つまり、通過点でしかない。階段の名前が大切なのではなく、階段を駆け上がる自分が大切 - そのようなことを日曜日から考えています。
生徒が作ったフラワーボックスをいただきました。箱の名前が大切なのではなく、箱の中に詰められた想いが大切です。
宝物がひとつ増えました。ありがとうございました。
わずか1年間のお付き合いで毎日お話をすることはなかったけれど、一緒に働かせていただいた者として、心から「ありがとうございました」と言わせていただきます。人との縁(別れや出会い)にはきっとそのものに意味があり、意味のない縁はないものと考えます。明日限りで本校を後にする教職員の方々との縁を私はいつまでも大切にします。ありがとうございました。新天地での御活躍をお祈りしております。
そこで働くあなたにはそこにいる意味がありそこで果たすべき役割がある - 一番最初は教諭として初めて迎える異動の時にO校長先生から言われました。専門外の学科で辞めたいと思うほど苦しい経験をしましたが、4年後に全日制の専門とする学科に校内異動となり、しばらくしてからその言葉の意味を私は私なりに理解することができました。やはり「意味」と「役割」はあったんだな、と。おそらくこういうことだったのだろうな、と気付きました。
それは管理職になっても変わりません。誰も答えは教えてくれないけれど「意味」と「役割」があってそこに置かれている。置かれた場所でしっかり咲くために私は何をすべきなのか、それが私に与えられた課題だと思って働いてきました。今もその気持ちは変わりません。3校勤務した教頭時代に求められた花は咲かせられなかったかもしれませんが、私自身の見解と納得として「こういうことだったのだろうな」という3つの花は心に咲いています。
「意味」と「役割」は決して仕事上の出来だけではなく、人とのつながり、地域とのつながり、つまり縁を含めたすべてにおいて含まれるものと私は思っています。
さて、話は変わります。いつだかお弁当(ただただ詰め込み型のお弁当)の話を書いたばっかりに、異動する教職員からお弁当を入れる素敵な手づくりバックをいただきました。書かなければ良かった・・・なんと妻にポーチまで。私ごと、先日、5年間使ってきたお弁当箱を新調したばかりで、実は新しいお弁当バックはナイスなタイミングで、嬉しい限りです。
きっと、これも縁がつないでくれたんだろうな、ってしみじみ思うところです。大切に使わせていただきます。ありがとうございました。そして、1年間大変お世話になりました。
明日で令和7年度は終わりを告げます。令和8年度がスタートを切ります。私の頭上の2階の職員室は心機一転配置換えを行いました。自分の前や隣に座る方が変わり、新たな発見やコミュニティが生まれるものと思います。これも縁ですね。
願書に貼付された写真と名前を繰り返し見て記憶していく。入学式で必要となる呼名用の名簿をつくり、座席表に時間割、ロッカーと下駄箱に出席番号のシールを貼り、学級通信を作成し、机を並べる際の目印を床にマークし・・・担任業務がスタートするこの時期は慌ただしくなります。緊張が続く中にも早く生徒に会いたいという気持ちが日に日に高まってゆく - 私にはそうした想い出があります。
担任として接する生徒の呼び名は苗字ではなく、私はすべて名前と決めていました。名前は名付けた人が思いを込めて授けた大切なプレゼントです。そこに敬意を表しながら生徒に声をかけていました。それからもうひとつ、生徒と近い存在でいたい、そのことが私の中では苗字ではなく名前でした。教え子たちがどのように感じていたのかはわかりませんが、名前で接すると生徒一人ひとりがより身近に感じて愛おしい存在になりました。これは私見ですので、正解ではないと思います。教師個々の持ち味がありますから接し方は多様です。
平成24、25、26年度の3年間が私の最後の担任業務となりました。40人それぞれが毎日引き起こすあぁだこうだがドラマチックでした。困ったこともたくさん発生しましたし、どうしてそうなるのとがっかりさせられることもありましたが、その都度みんなで考え乗り切った3年間でした。卒業時の40人は立派に成長し青年の姿になっていました。
2年生を終えるまではほぼ毎日空き教室で個別に話をすることばかり。1週間しかない学校祭の準備期間なのにふざけてばかりいるので2日間作業させずに下校させたこともありました。あのときの生徒たちの慌てた顔は忘れられません。今だから笑える懐かしい出来事です。毎日がこのようなことばかりでした。
私はこうした顚末を毎日学級通信に記し保護者等にドラマをお伝えし続けました(5回の担任業務のすべて)。褒められることも失敗したことも、生徒、保護者等、担任みんなでドラマを見て考えていきたかったからです。3年間で約600回のドラマをお伝えしました(意外にすべての保護者等の手元に届いていました。「おもしろい」、「毎日楽しみにしています」、「先生、本当にうちの息子が、すみません」、「先生応援してます」、「穴を開けてくれているので紙ファイルを買ってストックしてます」、「いつもありがとうございます」などよく電話をいただいていました)。
B5版の紙ファイルがパンパンに3冊。いつかクラス会が行われて、40人の誰か一人でもその3冊を持ってきたら、そこに集まった全員にあの日あのときの高校3年間が蘇ってくる・・・そういう未来の姿をイメージしながら私はいそいそと学級通信を作っていました。こういうのを自己満足というのかもしれません。それでも学級通信の元データは今でも私の宝物です。
さて、本校では新入生の受け入れに向けた準備が進んでいます。御家庭におかれましては、制服やジャージー等の採寸と購入、端末に教科書等の購入、新生活に向けたさまざまな出費が嵩んでいることと推察いたします。何か御不明なことがございましたらお問い合わせください。
一年前は何をしていただろう。生活するのに必要な最低限のものしかなかった(軽トラックの荷台で収まる分)とは言え、部屋には段ボール箱がいくつも積み上がり、掃き掃除に拭き掃除を繰り返していた。北見を出発する直前まで外すことができないストーブの前に陣取り、隙間時間は座卓にノートパソコンを広げ美唄尚栄高校に勤務するための準備をしていた。
次男が大学卒業で岡山から引き上げてくるのが3月末となり、その引越の手伝いと観光を兼ねて妻は長らく出掛けていた。私の引越よりも子どもの引越が重要という具合だった。帰ってきたその足で札幌からバスに乗り5時間半をかけて北見に来てくれたのが29日。「どうしてうちの引越は全部子どもの引越とかぶるんだろう」と疲れ果てた顔で妻が言ったのを覚えている。何だか私の引越が悪い、とでも言っているように聞こえた。
この会話は、私が教頭として苫小牧へ引越となった3月から2年おきにしてきた。前にも書いたが、私の苫小牧への引越と長男の弘前への引越、2年後苫小牧から小樽への引越で次男の岡山への引越、北見への引越で長男が弘前から札幌へ、北見から美唄の引越は次男の岡山から札幌への引越。子どもが独立した今、もう我が家の引越はかぶることはないが、おもしろい歴史を重ねてきたことはこの先家族間の笑える思い出話になると思う。
夜は職場内のいくつかの小さなグループが私のために送別会を開いてくれて、2年間の出来事を遅くまで語り別れることへの寂しさでいっぱいになっていた。もう1年、いやずっとこの人たちと仕事がしたい - これが私の本音でもあった。
2年おきに引越を繰り返してきたわけだが、わずか2年であってもその職場に対する愛着や思いは深いところまで根を張り、それを掘り返して更地にしていくのには気持ちが追いついていかない。これは苫小牧も小樽も同じだった。限られた2年だからこそ、本来5年、6年をかけて築き上げるものを60秒1分を20分、30分のスピード感を持って私は詰め込む努力をしていた。実に濃縮された脂っこい時間。人との出会いはかけがえのない大切なものになった。別れは辛いけれど、こうした気持ちにさせてくれたのは管理職になったからであり、そこは管理職の立場にある者しか感じられない大きな魅力だと私は勝手に思っている。
借家は住宅街の中にあり、道路を挟んだ向かいに住むAさんとはちょくちょく世間話をする仲になり、「先生がいなくなると本当に寂しくなるな」と、私の心を躊躇わせるようなお言葉までいただいた。31日はAさんが不在で、奥様にお礼の挨拶をして北見を後にした。翌日の4月1日の朝、校長職がスタート私に真っ先に電話をくれたのはAさんだった。激励の言葉の最後に「先生ありがとう、北見に来たら絶対遊びに来てよ」そう言ってくれたのが何よりも嬉しかった。地域の方のありがたさと大切を肌身で感じた瞬間でもあった。
ちょうど1年前のことです。時の流れは早いですね。
さて、ホームページ閲覧数が38万5千件を超えました。4月着任早々、とにかく情報発信に力を入れましょう、と教職員にお願いし5月から本格的に取り組んでまいりました。今年度で30万件を超えるアクセスをいただきました。読んでくれている方がたくさんいる、ということが更新する教職員の励みになっています。いつも大変ありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
眼前にこれを見せられるともう言葉が出ません。
昨日の修了式で年度の締めくくりとなりました。生徒は14日間の年度末年度始めの休業に入りました。しばらくの間、部活動等以外での登校はなくなりますから生徒の元気な声が校内に響き渡ることはありません。
朝、誰もいない教室棟を回りました。1年次生の学校設定科目である「産業社会と人間」の中で作成したポスターに目を馳せると、そのできばえの善し悪しではなく、生徒なりの町に対する思いが込められており、そうだそうだと考えさせられることばかりでした。
こうした一つひとつの意見を吸い上げていくことは難しいとしても、一つひとつに目を向けて真剣に考えていかなければ、町からどんどん若者が離れていくのではないか、そう思うのです。私も空知の町に生まれ育ちましたから空知が大好きですが、18歳以降故郷に戻らず生活拠点は別な町にあります。小中高大学と学びの段階で町づくりについて考える授業がなかったことも何かしら影響しているのかもしれません。
本校では「産業社会と人間」、「総合的な探究の時間」をとおして、計画的な教育活動に取り組んでおり、自分たちの住む町を調べ、地域の方と意見を交換し、地域の企業や関係機関様と連携し町の活性化に向けた探究活動をしています。これらは大変魅力的な授業で、生徒たちの発想の豊かさにいつも感心させられますし、これが実現できたらおもしろい町になるだろうなと思わせてくれます。生徒が提案したものがどれかそのひとつでもプロジェクトとして動き出したら素晴らしい展開になる - 私はそう考えています。
工業高校の建築デザインコンクールで優秀な成績を収めた建築パースが、実際の建物になったケースがいくつかあります。夢が現実になることを高校生に実感してもらうのは大変意義深いことです。学びが形につながる・・・これは夢物語ではなく現実に起こること、そうしたことをたくさん与えられる世の中であって欲しいです。
少子高齢化が進み町の過疎化も加速度的に進んでいます。学校もさまざまな課題を抱えています。もう待ったなし、です。目の前にいる高校生の発想や視点が町や学校の課題を解決する糸口になることを私たち大人は真剣に受け止めなければなりません。
あのときの意見や提案を早い段階で吸い上げておくべきだった・・・そういう後悔はしたくないものです。
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