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校長の小部屋

ひまわり

(7月26日 美唄月形線沿いのひまわり)

 札幌の自宅に帰る途中、フロントガラスのずーっと向こう側に広がる鮮やかな黄色の絨毯が目に留まりました。この時期ですから『ひまわり』です。ひまわりは私にとって特別な花です。一色の黄色は近づくにつれ、それは一本一本、一つひとつの花の表情が織りなす黄色に変化していきます。路肩に車を停め、私はひまわり畑の端に立ち、ずっと昔に見続けてきたひまわりのことを考えていました。

 前にも書きましたが、20代半ばに体調を壊し、心も身体もこてこてにやられてしまったときに、カメラを車に積んで北竜町のひまわり畑に何度も通いました。29歳で次の学校に転勤しましたから、夏の北竜町で4年間ひまわりの写真を撮っていたことになります。

 誰のことも気にせずに、ただ自分の信念を持ち、太陽に向かって鮮やかに輝きながら凛と立つその姿に、私はずいぶん励まされ勇気づけられました。また、一本一本のひまわりが共に支え合いながら一つの黄色を作り上げている姿に感動しました。なんだかそこにいると、手の施しようがなかった心の荷物をひとつずつ捨てられるような感覚の中で、自分が何に迷いどうありたいのかについて素直に向き合うことができました。あの数年間は間違いなくひまわりに何かを求め、ひまわりから自身の進むべき道を教えてもらっていました。

 ひまわり(向日葵)は、太陽神にちなんだ「あなただけを見つめる」という花言葉を持ち、愛や信頼の象徴とも言える花です。これだけ多くのひまわりが、しっかり自分を見てくれている - あの頃は本当にそう思いながら自らを奮い立たせ生きていました。以後、15年にも及ぶ苦しい時期を過ごしましたが、振り返るとそれは決してマイナスではなく、自分を成長させるいい時間であったように思います。

 話は変わります。有名な映画ひまわりを知っていますか。ずいぶん昔の戦争と恋愛をテーマにしたイタリア映画ですが、この映像に映し出されるひまわりの風景はもう圧倒的に美しくて言葉を失います。是非見て欲しいと思います。

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美しい風景を、美しいまちを

 自ら撮影した写真とシャッタを押した時に感じたことや思ったことを綴る校長の小部屋も、スタートしてから3ヶ月になりました。できるだけ撮影したときの気持ちを素直に綴ってきたつもりです。その写真を撮ったときに自分が何を感じ、何を思ったか、そこにこだわりを持って書いてきました。

 私は、小学生の頃から祖母の隣で静かに本を読み、本の中の登場人物を自らに当てはめて想像したり、物思いに耽って時間を過ごす少し変わった子どもでした。ある日授業で詩を習ったとき、自ら思ったことをこんなにも端的に、そして形にとらわれることなく自由に書ける言葉遊びに衝撃を受けました。それからというもの詩を書き続けました。

 夏休みや冬休みの自由研究の作品が並べられたテーブルには、友達の大がかりな作品ばかりが並べられ、私だけノート1冊なので周りからずいぶんひどいことを言われましたが、担任の先生だけは「いろいろな思いが伝わってきます」と褒めてくれたのを覚えています。両親から褒められることがなかったので、そのときの喜びは今でも忘れず記憶に残っています。

 いつも物思いに耽り、思ったことをノートに書き留めておくというようなことを小学生の頃から続けているので、書く、ということに関しては抵抗はありません。文章の善し悪しは専門ではないのでわかりませんが。

 4月、ホームページの更新が滞っておりましたので、どうにかしなければならないですね、と教頭先生と話をしてきました。そのときに教頭先生から「校長先生の思いを書くページがあればいいと思いますよ」とアドバイスをいただき、誰かに更新を依頼する前に自分で更新すればいいのだという思考回路に至りました。教頭先生が私が書くことへのきっかけをくれました。ありがたいな、と思っています。

(7月23日 18時29分)

 地球環境が変化してきていると言われ、この暑さもその影響なのかな、と思わざるを得ない状況ですが、夕刻にこうした風景を見ると、子どもの頃から見てきた空や雲と何ら変わらない、この先もずっとこの風景が続いていくんだ、そう納得している自分がいます。でも、もしかしたら続かないのかもしれない、と思う自分にも大きな戸惑いを感じています。確かにこの場に立って見上げた空や雲は、あの頃と何も変わっていないのです。ただ、唯一違っているのは気温です。この時間で30℃です。こんなことはなかった。

 美しい風景を、美しい町をずっと残していく・・・今を生きる私たちの責任です。それは大人だけではなく、生徒も一緒です。便利さだけを追求するのではなく、後ろを振り返り、置き去りにしてきたものをゆっくり見つめ、未来に残すもののために探究し、小さな個人レベルのことでも行動を起こす必要があるのではないかな、と思います。

 生徒には是非自分の住む町の空を見上げて欲しい。雲が織りなす模様をゆっくり眺めて欲しい。勉強や部活動、恋人や友人、進学か就職、今日と将来・・・私も高校時代にはありました。生徒もさまざまな思いや悩みの中で生活しているはず。そうしたことを一時でも忘れさせてくれる風景が目の前に広がっています。美唄の風景は本当に美しいです。美しいものに素直に触れてください。

 夏季休業に入り、私も出張や休暇取得もありますので、毎日の更新は控えさせていただきます。時折訪問していただけますと幸いです。

 暑い日が続きますのでどうぞお身体を御自愛ください。

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暑い夏

(7月23日 8時36分 朝から30℃を超えています)

 6月中旬から高温が続いておりますが、今週は暑さのギアが一段上がった感じがします。夜になっても気温が下がりません。

 私は四季の中で夏が一番好きですが、それはかつての北海道の清々しい夏と連動するものです。近年の夏は身に危険を感じるところもあり、好き嫌いなどと悠長なことは言っていられない状況になっています。

 窓枠クーラーやスポットクーラーを稼働させて教室の室温を下げるようにしてはいますが、教室という空間に多くの生徒がいると、人が発する熱等もあって思うような効果が得られません。今年度からジャージ登校させるようにしましたし、授業中の水分補給、運動を伴う活動の中止等を含め、生徒の身体に負担をかけないよう取り組んでおりますが、今後も熱中症から生徒と教職員を守るため、アンテナを高くしていかなければなりません。

 私が借りている家、そして自宅にはクーラーは設置しておりません。扇風機、換気扇、サーキュレータを稼働させて何とか凌いでいます。もう限界だわ、と妻はクーラーの設置を特に今夏は口にするようになっています。そろそろ本格的に検討しなければいけないかもしれません。自宅は特殊な窓ですので窓枠クーラーやスポットクーラーの取付ができないため、エアコンの導入の検討をしなければなりません。我慢するところは我慢するけれど、私も妻も少しずつ歳をとってきたことを考えると、暑さから身を守ることに我慢する必要はないな、と真剣に考える今日この頃です。

 すでに連絡を差し上げておりますが、本日、臨時休校といたします。突然の御連絡に驚かれたと思いますが、不要な外出を避け、自宅において水分の補給をこまめに、暑さで疲れた身体をゆっくり休めて欲しいと思います。

 明日は夏季休業前の最後の登校日となります。暑さが心配ですが、元気に登校してください。

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本校生徒の活躍を見に来てください!!

  

 7月31日(木)15時から16時になりますが、コアビバイ市民ふれあいサロンにて『尚栄高校フェア2025夏』を開催いたします。例年、冬場に開催しておりますが、今年は年2回として夏場にも開催する運びとなりました。

 『文理・教養系列』と『デザイン系列』は作品の展示や掲示、『情報通信マネジメント系列』は広告の作成及び販売活動、『メカトロ・エンジニア系列』はミニマイコンカープログラミング体験、電子工作、実習作品の無料配布、『フード系列』は加工品(ジャム、カレー、ベーコン、フランスパン、生ハム等)の販売を行います。 

 本校は体験的な学びを重視しており、校内を歩くと必ずどこかの系列が実験や実習を行っています。教室に入って生徒の様子を見ていますと、座学で見せる表情とはまた異なるいい表情で楽しそうに作業に取り組んでいます。何かをつくる経験は必ず深い学びに結びつきますし、何かをつくった経験は更なるものづくりへの興味や挑戦につながると私は信じています。

 これからの世の中の変動を考えますと、本校のような学びの形態が必ずどこかで役に立つはずです。究めることだけではなく、広く対応して生きていく力がますます求められます。5系列の総合学科高校ですが、私は「人が生きていく上で大切な衣食住が詰まった学校」と考えています。道内でも非常に珍しいスタイルの学校です。

 各系列での取組と生徒の活躍が集約されたフェアとなっております。私たちは、北海道美唄尚栄高等学校の教育活動を幅広く知っていただく機会と捉えています。毎年楽しみにされている市民の方が多いと聞いておりますが、市内外を問わず是非お越しくださいますようお願い申し上げます。

 本校ホームページ(トップ)のお知らせ欄に、広告を掲載しております。必要に応じてダウンロードしていただき、御覧くださいますようお願い申し上げます。

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傾聴すること

 「傾聴」とは、相手の立場に立ち、気持ちに共感して理解しようとすることで、相手の話を聴く際に、善悪や好き嫌いの評価を避け、相手の視点に立つことが信頼関係を築きます。その際、最も注意しなければならないのは、自分の否定的な反応を控えること。相手がどうしてそのように考えるようになったのか、その背景に関心を持って聴くことが大切です。

 私は、「心で聴いてあげる」、「目で聴いてあげる」、「耳で聴いてあげる」この3つの聴いてあげるをずっと大切にしています。中学校の時の担任の佐藤先生が実によく話を聴いてくれたから、今の私があるのかもしれません。

(3つの花が寄り添って咲く - 自宅庭より)

 ある電気工事会社を仲の良い二人が受験し、一人は内定、もう一人は不採用になったとき、不採用になったユウダイは目に涙を浮かべ私の前に呆然と立ち尽くしました。私はユウダイを自分の車に乗せ、学校から離れた誰もいない場所に車を停め、「ここで気の済むまで思いっきり泣きなさい」と言いました。ユウダイが落ち着いたときにはかなりの時間が経っていましたが、その間、私もある試験に失敗して不合格通知を手にして泣いた高校時代を思い出していました。

 ユウダイは今まで努力してきたことや不採用の悔しさ、これからどうしたらいいのかということを話してくれましたが、私はただ黙って静かに話を聴いてあげました。僕が今何かを言うべきではない、ただ聴いてあげればいいんだ、その先のことはいつか話をしてあげればいい - そう思いました。「ゴウさん、話を聴いてくれてありがとう」とユウダイは真っ赤な目で、でも少しだけすっきりした表情を私に見せました。もう16年も前の話です。

 8年前に東京で受講した研修の一コマで、実践を含めた「傾聴」をみっちり学習させられました。特に「傾聴」を意識してきたわけではありませんが、この時に私のやっていることは実は「傾聴だったんだ」と気付きました。私は高校生の頃からずいぶん友達の話を聴いてきたし、一通り話を聴いてから自分の思いを伝えるようなところがあり、控えめな人間だな、なんて思ったりしていました。でも、それはそれでおかしいことではなかったんだと思った研修でもありました。

 自分の思いだけをまず伝えたい、そう思うところではありますが、相手の気持ちを受け止めてあげることを心掛けてみましょう。今までと違った世界が目の前にあらわれますよ。

 「傾聴」とても大切です。

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課題研究

 「何をしているの?」と質問しました。一人は「3Dプリンタの調子が悪いので直しています」もう一人は「マイコンカーのセンサをハンダ付けしています」メカトロ・エンジニア系列の課題研究の授業を見学しました。それぞれにテーマを持って取り組んでいるおり、トレーニング器具を製作するグループやベースギターを製作する姿もありました。何かに夢中になれる時間を持てるのはいいですね。とにかく表情がいいです。

 ものをつくることイコールすぐ完成ではありません。まず思うように動作しません。最悪は全く動作しないということもあります。その事実に直面したときに人間性を垣間見ることができます。腹を立ててしまう人(そもそも自分で取り組んだ結果に腹を立てても)、放り投げる人(今まで作業に費やした時間はもったいなくないかな)、動作するまで作業する人(完成して使う喜びを感じたい)、すぐ人に聞く人(これ、大切だけど手ぶらはダメです)・・・

 わからないことがあればすぐ聞くことも大事ですが、私は聞く前の在り方にこだわります。これは生徒だけに求めるのではなく、仕事をする大人にも求めます。大学の研究室で仕えた城谷教授に徹底的に報連相の指導をされ、そのことが社会人になるにあたってすごく役に立ちました。

 「日下くん、どうすればいいですかって聞くけど、どこまで自分で考えてどこでつまずいたの。それを聞かせてもらえないのなら教えようも答えようもないんだよ。まずは自分がどうしたいのかが大切なんだよ。どうすればいいと聞くのはやめなさい。」こう言われるとわからないことを徹底的に調べたり勉強したりしなければなりません。しかし、これが自分の理解度を確認したり、何をしたいのかにつながる大切なことでした。ゼミには厳しくユーモアたっぷりの先生で、私は先生に出会わなかったら今とは違った人間になっていただろうと思います。

 課題研究の様子を見ていて、研究室で実験に明け暮れていた時のことを思い出していました。聞く前に調べたり、この先どのような見通しを持って進めていくのかを考える - そのような生徒に育って欲しいと思っています。

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ごちそうさまでした

 「とりめしとナムルを作ったので食べてください」3年次生の2名が私のところにやってきました。選択科目『フードデザイン』の授業で作った料理です。「楽しく作れたかい」と聞きますと、ふたりは声を合わせるように「はい」と答え、爽やかな笑顔を見せてくれました。せっかくなのでホームページに掲載するよ、と断って、写真を撮らせてもらいました。

 美唄市はとりめしで有名ですが、農林水産省のホームページを読みますと、美唄市の郷土料理として親しまれ、発祥は北海道の開拓が本格的に推進された明治時代にさかのぼり、現在の美唄市中村地区に入植した農場主の中村豊次郎氏が、稲作が軌道にのるまでの期間、小作人たちの家計と健康を気遣い、つがいの鶏を与え養鶏を奨励したとのこと。その後、米がとれるようになると、客をもてなすために飼っている鶏のお肉を米と一緒に炊き込んだ「とりめし」で振る舞った、と記載されておりました。うむ、なるほど。歴史的な背景を知ることで地域理解につながります。私も勉強になりました。

 家族で私の実家に帰省するときに、途中美唄市内のとりめしを食べました。子どもたちが小学生だったように記憶していますが、よほどインパクトがあったのか、以来とりめしが食べたい、と言うようになりました。私と行動を共にする帰省はそれほど多いものではありませんでしたが、何度かお店に寄って食べました。

 やがてふたりが大学生になり自動車を運転するようになった頃、「子どもたちだけで食べにいったこともあるんだよ」と妻から聞いたこともあります。私が美唄に転勤が決まったことを子どもたちに伝えると、それぞれから、いつでもとりめし食べることができていいよな、と言われました。たった一度寄ったその店のとりめしの味がふたりには忘れられないものになったんでしょうね。

 生徒たちが作ったとりめし大変美味しかったです。ごちそうさまでした。

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ありがとうございます

 暑い日が続いています。教室に窓枠クーラーを取り付けてはいるものの、期待したほど室温が下がらず、生徒も暑さによる疲労が蓄積しているのではないかと思います。負担を軽減するため、半袖やハーフパンツでの登校をさせていますが、今後も厳しい暑さが続くので注意が必要です。バランスの良い食事、十分な睡眠、水分補給を実践して乗り越えていきましょう。

 日が暮れても気温が大きく下がることはありませんが、それでも夕刻になると少しだけ肌に心地よい風が流れてくる - そんな日もあります。借家にはクーラーを取り付けていないので、仕事を終えて部屋に入ると熱がこもって30℃になっていることは珍しくありません。風をとおし、室温が下がることを期待して、私は一時外に出ます。

 外に出るたびに美しい美唄の空が見られるわけではありませんが、たまたま、偶然に出会うことができます。そういう日は得をした気分になります。この日も草むらに腰掛けずっと空を見ていました。

 夕刻、少しだけ空を見上げてみましょう。身体も心も癒してくれる素敵な空が広がっているかもしれません。自分が立つその場所でしか見られない自分だけの空が広がっているはずです。

 4月22日現在95,336アクセスでしたが、約3ヶ月で5万件のアクセスがありました。本校ホームページへの御訪問ありがとうございます。

(7月14日 午後6時25分)

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先の答えを見つける旅へ

(写真の一部を加工しています)

 山型パン、フランスパンをつくる授業の様子です。つくりたいな、と思いました。一から自分でつくったパンを食べたとき、生徒たちは何を思うのだろう。みんな笑顔で「美味しいね」って言いながら食べるのでしょうね。家でつくってみようとか、パン職人をイメージしたり・・・想像するだけで何だか楽しくなってしまいます。

 家を建てるときに、お菓子づくりが大好きな妻が、ガスオーブンは絶対ね、と言うので、私は何も考えないでいいよ、とオーケーしました。後に妻は3,4年パン教室に通い、今でもパン、ケーキ、お菓子をそのオーブンで焼きます。誕生日、クリスマスは妻の焼いたケーキでお祝いをしています。

 オーブンの前で焼け具合を小窓からのぞき込んでいる妻の表情は、どこか子どものようでもあり、嬉しそうな感じを受けます。フランスパンの焼け具合を私もガラス越しに眺めさせてもらいましたが、妻の気持ちがわかるような気がしました。わくわくするのです。うまく焼けているだろうか、膨らんでくれているだろうか・・・

 本校に勤めるようになって、自分でつくりたいという欲求が日に日に高まっています。食べるだけではダメなんだ、自分でつくるスキルを何とか身に付けたい。正直、生徒たちがうらやましいです。

 生徒には、他の人ができないことをやっている自分にプライドを持って欲しいです。本校で学んでいる自分をたくさん楽しんで欲しい。高校に入学して一般的な学習をすることは誰でも同じですが、本校の学びはそれ以外のプラス要素(付加価値)があります。ものをつくることができる、というのは私はすごいことだと思っています。買うことはできるけれどつくることはできない。世の中そうしたことが多いのが現実です。

 本校は専門を学ぶ単置校(農業高校、商業高校、工業高校)ではなく、5つの系列を持つ総合学科ですから、ひとつの学校の中におもしろい学びが満載されておりドラマチックです。授業の様子を見て回っているだけでわくわくします。

 それぞれの系列におもしろさはありますが、フード系列で行っている食品加工の実習やデザイン系列の調理実習、ライフデザイン実習については、着任して3ヶ月間興味を持って見学しています。自分の知らなかった世界に触れられる喜びを日々感じています。

 先日、パンづくり授業の写真を見た妻が「えっ、学校でこんなおもしろいこと学んでいるんだね」と言いました。「そうなんだよ、こうしたスキルがあれば、美唄の空き店舗等を利用してパン屋さんをすることも夢ではないんだよ。もう一回高校入学できるなら、間違いなく尚栄に通うと思う」と私は答えました。

 昨日も書きましたが、つくった先のことを考える学びが必要です。生徒たちがつくったパンは7月31日(木)にコアビバイ様を会場に開催する『尚栄フェア2025夏』に販売予定です。販売した先のことを考える学びが必要です。自分たちのつくったものが地域にどのように生かされ、さらに自らの人生にどのように結び付いていくのか・・・誰も答えを導いてはくれないわけですから、先にある答えを見つける旅を続けていかなければなりません。

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みんなで街を考える

 7月9日(水)3年次生総合的な探究の時間の一コマです。

 『若者が集まる場所』をテーマにした班がコアビバイ様に出向き、商店街振興組合の方々と意見交流を行いました。私も最初から最後まで参加させていただきましたが、両者にとって大変有意義な時間になり、生徒の深い学びに結びついているな、と感じました。

 私が中学生や高校生だった頃にこのような学びがあれば、私の故郷は現状とは180度異なった別の姿を見せていただろう、と思います。残念でなりません。しかし、今、この学びを続けている生徒たちの10年先20年先の故郷の形は、人口の減少などの諸課題に直面しつつも発展的な変化を遂げているような気がします。

 現在もそうですが、これから先は教室で黒板を見て先生の話を聞き黙々と学んでいくというスタイルは消え、地域を核にして各教科の関連を結びつけていく横断的な学びが主流になります。この日は、まさにその学びの実践でした。

 かつては、インターンシップを実施しました、工場見学に伺いました、講演を聴きました、ボランティアに参加しました、地域の課題を知りました、ものをつくりました、発表会を行いました・・・行動実践することで完結でした。しかし、数年前からその実績のさらに先のことを考えた教育が求められています。私たち教員は、急ぎ足で頭の切り替えをしなければなりません。

 今回の取組も一昔前の総合的な学習の時間であれば、『若者が集まる場所』について生徒同士で議論を重ね、「こんな施設ができればいいよね」、「こんなイベントをすればいいだろうな」と、素晴らしいプランが出てきても、最後は教員側で講評して完結でした。もしかしたら、町内や街全体を活性化させる貴重なプランだったかもしれないのに。

 生徒が考えた案を大人が聞いてくれる。大人は今まで気付かなかったアイデアに驚く。大人はもしかしたらその案が実現できるかもしれないと真剣に考える。実現に向けて生徒と一緒に活動していく。近い将来こうした街づくりが日本全国至る所で当たり前に起こっていくと思います。今回の生徒の提案が何かの形で実現できれば素晴らしいです。

 今後の社会像(教育)のキーワードは、「人口減少・少子高齢化」、「地球資源の有限性」、「持続可能な社会」、「子どもの多様性」、「子どもの貧困」、「ウェルビーイング」、「グローバルな協働」、「生成AI」、「社会の急速・非連続的な変化」、「学校の包括的な役割」だと考えます。

 私が教員になった時に32年後の教育の役割が今のようになっているとは想像できませんでした。そして、現在、1年前2年前に求められていたことが古い情報となり、次から次に書き換えられています。定期的なバージョンアップではなく、日常化したしかもフルモデルチェンジ的なバージョンアップとなっています。それだけ教育の動向は加速度的に変わり続けています。私を含め教員全員が常にブラッシュアップしていかなければ、時代に取り残されてしまう、そんな緊迫した状況になっています。

 今求められているのは、「地域を核とした教育活動」である。このことを肝に銘じなければなりません。

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夕暮れの空

 (美唄中学校裏の農道にて撮影)

 7月9日(水)18時47分

 ランニング最中に出会った夕暮れの空。

 言葉を失う美しさ。

 この日のこの時間の美唄のこの場所にいて良かった。

 カメラを、写真をまたやりたいな、と思いました。美しく素敵な空を三脚に載せた一眼レフでしっかり納めたい・・・そんなことを思いながら、スマートフォンを空に向けました。

 走ることが生活の最優先事項になって13年、その裏で13年間カメラから遠ざかっています。たまにランニングバックにミラーレスの一眼を入れて走ることはありますが、目的が距離やタイムになると、重たいカメラはお荷物になってしまい、結局防湿庫に眠らせたまま家を出てしまいます。

 写真なら写真だけの一日を過ごす - そんな時間が私にはありました。長い期間体調を崩し(仕事は休まずいきました)、すがるような気持ちでカメラ機材を自動車に積んで出掛けました。家にいることも人に会うのも嫌で、出会う風景に心を許し一人シャッタを押していました。いったいどれだけの回数シャッタを押したかわかりません。ファインダを覗き、シャッタを押す。一回押す、その行為ごとに心の迷いをひとつずつ消し去ることができるんだ - そう信じて写真を撮っていました。

 写真は大学時代から始め、教員になって3年間忙しさのあまりカメラを持たず、27歳から先に書いた理由で再開してランニングを始める41歳まで、車一台購入できるくらいのカメラとレンズでさまざまな被写体を撮影してきました。

 ランニングをして、庭に出て、珈琲を飲んで、本を読み、JAZZを聴き、カメラを持って・・・1日の中でそれだけのことはどう考えてもできません。優先順位の高いことから手をつけていくと、ほとんどのことがやれないで終わってしまう。カメラの優先順位は下にある、どうしたものか・・・ここ数年考えるのはこのことばかりです。

 趣味は増やすものではないのかもしれません。

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代弁

 どう表現したらいいのかわからない気持ち - 高校生くらいの時は誰にでもありますよ。通過儀礼だから、そうなってしまっている自分に戸惑う必要はありません。ずーっと先に今を振り返ったとき、あぁそういうことだったんだな、とわかる日がきますから。

 持って行き場のない私の気持ちを慰めてくれるのはいつも音楽でした。来る日も来る日もラジカセから音楽を流していました。もう、この時の私を代弁してくれるのはこのアーティスト、この曲しかない、それくらいのめり込みました。

 学校祭における芸術部の作品は部員全員の、いや、今を生きる高校生の気持ちが込められたものなんだ、と私は確信します。「そんな自分を変えたい」「良いことばかりじゃない」「痛くて泣きたい時もある」そうだよ、そうだよね、と思います。私もそうだった。

 大勢でひとつの作品づくりをする書道を私は本校に来て初めて目にしました。最初は新入生向けの部活動紹介。今回が2度目。他の学校の高校生が取り組んでいるのをテレビニュースで何度か見たことがありますが、いざ自分の目の前で展開されると、心が揺さぶられ、私などすぐに目頭が熱くなります(実は涙を流して見ていました)。若いエネルギーがひとつのものに込められる、というのはただそれだけで美しく、本当に感動的で、勇気や希望がじゅわじゅわとわいてきます。

 ずっと昔、この作品の元となっているアーティストが在籍した学校に、東京で行われた研修プログラムの一コマとしてたまたま訪問しました。案内をしていただいた校長先生が、「実はうちの学校から出たバンドなんですよ」と紹介してくれました。それがきっかけとなり、こんな私でも何曲か知っている次第です。

 私にとっては耳に入ってくるだけの音楽でしたが、作品から改めて歌詞の一部を読ませていただくと、高校生の想いを的確に捉え、やさしさを持って聴く人の進むべき道を示しているな、と感心します。今の私にこのような立派な言葉は並べられません。その時、その年齢でしか書けない。想いはその時にしか代弁できない。そうしたものはきっとあるのだろう、と私は思います。だから、多くの人の心を捉えることができる。

 この前も書きましたが、学校祭の有志ステージにおいて男子生徒が歌を唄いました。歌詞がすごく良くて(高校生の切ない恋が綴られているように私には聞こえました)、歌った生徒にアーティスト名と曲名を聞いたら、妻が大好きなアーティストでした。私はここ三十年JAZZしか聴きませんので、妻と音楽の好みは一致しませんが、妻にその話をしたら棚からその曲が入ったCDを出してきてくれました。歌詞を読むと、私が感じたままの言葉が綴られていました。素敵な歌詞でした。

 好きな女性にどのように告白するかを悩み、手紙を書いては書き直し、成就した恋と打ち破られた恋、フラレて落ち込む時間、10円玉を落としながらの公衆電話、彼女と時間を決めての深夜電話・・・そうした私の揺れる想いを、音楽と歌詞が支えてくれました。

 高校生だった自分と本校の生徒の生き様が重なり、何かあるとひとり目頭を熱くしています。もう戻ってこない青春を、こんな歳になってもいちいち考えてしまうのはどうしてなんだろう・・・未練があるわけでもないのに。我がことながら不思議です。

 全校生徒が毎日この作品を目にしています。ふと、見上げたその目にこの言葉が映り込み、その生徒にとっての勇気になり、慰めになり、励ましになり、支えになり・・・そうなってくれれば、と私は思っています。

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花を持ってきてくれました

 学校祭前に生けたお花は、校舎内各所でのお披露目ではなく、デザイン系列の展示スペースの一角に並べられることになりました。学校祭で来校する多くの方に見ていただくことを考えるとそれが一番良かったと思います。

 6日(日)、7日(月)と学校は休業し、昨日お昼過ぎに華道部の女子生徒2名が校長室にお花を持ってきてくれました。生けてから日にちが経ち、残念ながらお花も少しだけ元気さを失っていましたが、デスクに置いて観賞させていただきます。ありがとうございました。

 本当は花と生徒の写真を撮りたかったのですが、元気いっぱいのお花の時までお預けにしました。申し訳ないと思いつつ、生徒に作品への思いを聞いたら「大きな葉っぱで夏の暑さを表現しました」と話してくれました。右下の葉がそれです。担当の先生に誘われて2年次生になってから華道部に入部したとのこと。家ではずいぶん前からハイビスカスを育てていて、きれいな花が咲くようです。学校祭楽しかった?と聞きますと、クイズや踊りがすごく楽しかったです、と笑顔で答えてくれました。

 夏真っ盛りです。我が家の薔薇は6月の2,3週目に満開となりました。一端休息に入り、白と赤のアナベル、ヤマアジサイ、アストランティア、バーベナ、エリンジウムなど、ありとあらゆる花が日替わりで満開を迎えています。

 一部ですが、薔薇の様子をどうぞ。これから咲く薔薇もありますが、一番いいときの写真です。何種類あるかわかりませんが、色も形も香りもすべて異なります。人それぞれと言いますが、薔薇それぞれです。個性があって楽しいです。 

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好きな場所

 平日の夕刻は7~10キロほどランニングしています。数年前まで10~15キロも走っていたのに、やはり年齢には勝てないのかもしれません。

 美唄市民になって3ヶ月、ここを曲がって道なりに真っ直ぐ行くと7キロ、美唄中学校前を抜けて裏通りを走っていくと9キロになる、などの距離に応じた私なりのランニングコースができあがりました。その日の気分や疲労度を考慮して毎日走っています。

 ランニングの最中、美唄駅周辺で生徒とよくすれ違います。目と目が合うと生徒は一瞬、うむっ、とびっくりした顔をしますが、私だとわかると、「こんばんは」と頭を下げてくれます。私も「こんばんは。お疲れ様」と声を掛けます。無視しないで挨拶してくれるのがとても嬉しいです。

 私は週末に札幌の自宅に帰るとき以外は自動車を運転しません。ランニングを始めて13年になりますが、運転していると見過ごすであろう小さな風景を見つけられるのがメリットで、実はこれがランニングをやめられない要因にもなっています。大きな通りだけではなく、あえて小路に入ったり、脇道に逸れて眺めのいいところに出たりしています。

 美唄の好きな場所をいくつも見つけましたが、この写真はその一箇所です。観光場所でも名所でもない小路の花壇。ここだけは走らず歩いてお花を楽しませてもらっています。実に手の行き届いた可愛らしい花壇で、自宅の庭づくりのヒントを得たりしています。

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心に

 一夏の想い出として、尚栄祭がみんなの心に焼き付いてくれたら・・・

 これが最後の尚栄祭になる3年次生には、踊ったことや歌ったこと、模擬店の販売、校内で食べたたこ焼きやワッフル、かき氷やカレー、冷やしうどんとヤキトリ・・・良き想い出としていつまでも心に残って欲しい・・・

 ステージで3年次生の男子生徒が歌った曲が胸に沁みました。じーん、ときました。目頭が熱くなりました(歳をとり涙腺がゆるんでいます)。先日のさわやか清掃、たまたまその生徒と二人で学校まで話をしながら戻ったのですが、そのときに高校卒業後の道を聞かせてくれました。そのことと重ねつつ歌を聴いたので、ついつい涙が出てしまったのかもしれません。今を生きる高校生全員の思いを彼が歌ってくれたたように感じました。

 教員一名を加えたダンスユニットも高校生のエネルギーを感じましたし、クラスを超えてチームを組んだダンスも若さ全開で素晴らしかったです。今日一日だけでいいから高校生に戻りたいな、と思いました。

 自分を表現することってそんな簡単なことじゃないです。誰にでもできることではありません。私自身もできません。みんな一律同じであることが求められているわけではないけれど、出っ張ることが何となくタブーとされている日本人の中にあって、こうして大勢の前で表現できることは尊敬に値する、私にはそれだけ価値のある行動のように思います。

 急に思い出したのですが、昔、東京の真夏に1週間缶詰の研修会に参加しました。当時全国工業高等学校長協会理事長の佐々木校長先生が、研修会最終日の挨拶で「出た杭は打たれる。でも、出すぎた杭は打たれない。本研修を受けた皆さんは自信を持って明日からの業務を進めていきなさい」と仰ったことを思い出しました。私には佐々木校長先生があらゆる意味で表現の達人に見えました。

 出て行く勇気・・・ステージ発表から私はそのようなことを考えていました。

 美唄市長桜井様、美唄市教育委員会教育長石塚様を始め、たくさんの方にお越しいただきました。また、PTA役員の皆様の御厚意によるカレーライスと冷やしうどんも大盛況でした。大変ありがとうございました。

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青春は今この瞬間

 昨日から尚栄祭を開催しています。本日は午前10時から一般公開となります。模擬店、PTA喫茶、各種展示となっていますので、是非お越しください。

 大所帯18名の部員による芸術部書道パフォーマンス。一文字一文字に高校生の、青春のエネルギーが込められています。(生徒玄関ホールに展示)

 「青春は今この瞬間」まさにそのとおりです。

 私にも青春はありました。もう二度と戻ってこない時間です。振り返ってみると、友人と過ごした楽しく明るい時間だけが思い浮かんでくるわけでなく、どこに持って行けばいいのかわからない苛立ち、表現のしようのない心の叫び、大人になることへの抵抗感、親元から一刻も離れたい気持ち、成就した恋愛や別れで傷つけた女性のこと、揺れる就職への思い、島への一人旅、親友と呼べる人と出会いたくて進んだ大学・・・そんなことばかりが脳裏を駆け巡ります。今思うと、心の置き所がなかなか定まらない時間であったように思います。

 自分はこうありたい、こういう自分になれるんだ、やっぱりこの夢は捨てて生きていかなければならないんだ - 夢や希望が現実という壁を越えられない、そのことを自分なりに理解していても、それを捨てて前に進んでいくことに迷いと未練がある、そこにもがき続けていたのかもしれません。

 しかし、今はあの頃とは違います。生徒の皆さんは夢や希望を捨てる必要はありません。何にでもなれる道や手段が無限に広がっているわけですから。青春のエネルギーを全開にして堂々と道を切り拓いていってください。

 いろいろなことがあった若き日ですが、すべてをひっくるめて、青春時代はいいものだったな、と思います。何年間を青春時代というのかはわかりませんが、あの時間は私にとっては宝物です。

 目の前の飾り付け、隣に座ったクラスメイトとのお喋り、音楽に合わせた手拍子、応援の声、文字や絵の描き、クラスみんなとのダンス、体育館の蒸し暑さと扇風機の風、体育館後方に吊り下げられたクラス垂れ幕、揃えたクラスTシャツ、大勢の前で初めての歌披露、手を取って笑えた時間、汗だらけのクラスTシャツ、ジャンプしてのハイタッチ、首から提げたタオル、担任の先生を巻き込んだクラスPR、披露できた楽器演奏・・・何でもいい。その一つひとつが一人ひとりの貴重な青春の足跡です。

 6つのクラスPRは皆さんの青春そのものでした。若いって、もうただそれだけでいいですよ。今、この瞬間をまっすぐ生きていけば、それだけでいい。

 すべてがみんなの青春です!

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一面、との遭遇

 今まで見えていなかった一面を知ってしまった - 長い時間同じ人と過ごしているとそうしたことは必ずあります。通常の授業が行われている時にはないけれど、行事の準備をしているとき、見学旅行中、部活動の最中などによく起こることです。

 我を通そうとしたりついつい我が儘が出てしまったり。片付けないで帰ったり時間に遅れたり。サボったり言うことを聞いてくれなかったり。自分はこんなに作業しているのにあの人はスマートフォンを見てばかり・・・たぶん、この学校祭準備期間中に多くの生徒がそれぞれの、一面、に遭遇したのではないかな、と思います。

 廊下を歩きながら生徒を見ていると、「あっ、何かあったな、昨日と顔色が違う」そうした雰囲気を感じ取ります。廊下の壁に寄りかかり、抱えきれない気持ちを友人に聞いてもらっている姿を目にしました。話の内容はわかりませんが、きっと、一面、に触れてしまったのでしょう。

 我慢しなければならないのはわかっている、でも、もうどうにも・・・自分の想いを聞いてくれる友達がいる。そこでの気持ちのやりとりが最終的に心を落ち着かせ、次に自分がどうすべきかを考えるきっかけになっていく。私は二人の様子からきっと二人の中で解決できるだろうと思い、そーっと、二人の横を通り過ぎました。翌日の表情が良かったので、きっとすっきりしたのだと思います。

 昨日も書きましたが、行事は生徒だけではなく、教員の成長の場である、と私は考えます。特に5回15年の担任業務で私は生徒たちから成長させてもらいました。行事のたびに一つひとつの困難を乗り越えていった生徒たちもまた成長しました。自分も、そして生徒たちも成長していくことが嬉しかったですし、幸せを実感できました。中でも札幌琴似工業高校で、もしかするとこれが最後の担任業務になるかもしれないな(その後管理職になりましたので本当に最後になりました)、と思いながら接した40人との3年間は、一日一日が愛おしく一日一日が厚く深かったです。あの40人の生徒たちに私は成長させてもらいました。感謝しかありません。

 いろいろな想いが交錯した学校祭準備期間を終え、生徒も教員もいよいよ尚栄祭を迎えます。たくさんの素敵な笑顔を見せてくれてありがとうございました。皆さんの姿から、私は、私の高校時代のことと教え子と過ごした懐かしい日々を思い返せる、心和む穏やかな時間を過ごすことができました。生徒と教員の皆さんに感謝しかありません。ありがとうございました。

 保護者等の皆様、お子様は学校祭準備期間を経て確実に成長を遂げています。成長したお子様の姿に是非会いに来てください。高校生のお子様の瞬間は、今この時しか見ることはできません。自宅では見られない新しい笑顔や声に触れてください。お待ちしております!

 さぁ、主役は、あなた、です。そして、あなたの隣の仲間も一人ひとりが主役です。みんなが主役です。

 尚栄祭大いに楽しんでください!!

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クラスと生徒の成長

 ステージ練習を体育館後方から見させていただいてますが、日増しに上手になっています。息が合ってきている - 練習を繰り返す中で着実に上達しているのを感じます。

 蒸し暑い中での準備作業ですから、ちょっとしたことで苛立ったり、普段なら聞き流せる言葉が神経に障ったり、思い通りに周りが動いてくれなかったり・・・おそらくそうしたことがあるのだろうと思います。

 そのような障壁は、クラスが、そして生徒たちが成長する過程の中では、必要なことと私は考えます。実際クラス担任をしているときには日常的にトラブルが発生し、そのたびに時間を割いて話を聞き話をして間を取り持ちました。衝突や仲直りを繰り返す中で、生徒たちはひと回りもふた回りも大きくなっていきます。

 完成されたものの評価も大切ではありますが、私はそこに至るまでの成長の見取りがより大切だと思っています。生徒自身が「私は成長したよ」「私たちのクラスはまとまったよ」などとはなかなか思わない。でも、私たち教職員は、クラスの成長、生徒一人ひとりの成長を肌で感じ取ることができます。そこが教師のやりがいであり魅力なのだ - 教職32年目になる私なりの結論です。

 少し話は逸れますが、教頭先生から写真のレイアウトの仕方を習いましたので、数日前からアプリケーションをフル活用しています。自動的に写真配置を提案してくれるので、とにかく便利です。今までは時間をかけて写真を縮小したり切り取ったりの加工をしながら並べていました。その一例として、この一枚(高校説明会で使用するスライドの一部)を作成するのに相当な時間を要しました。楽しみながら作成したとは言え、さーっと並べてくれるアプリケーションがあれば、と思っていたわけです。

 生涯学習、という言葉を耳にします。今までの知識をリニューアルしていくこともそのひとつです。今回のちょっとした学びにより、効率化、時間短縮につながる作業の在り方を実感しました。どんな分野であれ、学び続けることは大切です。

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みんないい顔しています

 今週は午後(5,6校時)を学校祭の準備の時間としています。各教室ではクラスPR(各クラスの特徴をテーマに沿ったダンスや演劇等のステージ発表でアピールする)に向けて、笑い声や振り付け指導する声が飛び交い、日に日に盛り上がってきています。

 教卓の上にタブレットを置き、みんなで画面をのぞき込んでダンスをしたり、打ち合わせしている様がやはり時代を感じさせます。そうした道具がなければないなりに工夫して取り組むのでしょうが、あればあったで次から次へと効果的な活用を見出していく生徒はすごいと思います。

 携帯電話もデジタルカメラもない私たちの高校時代は、記録用としてインスタントカメラ(写○ンです)で静止画を撮影することが主でした。動画を残すとなるとテレビ放送局から持ってきたのか、と思わせるようなビデオカメラを抱えた撮影となり、それはそれで大変な作業でした。そもそもそんな高級な機材を個人で所有している友達など誰一人いませんでした。だから動画ではなく静止画。

 自分の家から持ってきたラジカセにカセットテープ(CDは高校3年生あたりからちらほら出現)を入れて音楽を流す、ビデオデッキとブラウン管テレビを持ってきて動画を見なければならない。何か事を起こすとなるとすべてが大がかりな準備となりました。約40年の間に何もかも様変わりし、スマート化されました。そんな中でも変わらないものはあります。生徒同士のやりとり、汗を流しながら練習する姿です。これだけは昔から変わりません。

 私の顔を見ると生徒たちが寄ってきて声をかけてくれるようになりました。2ヶ月半で垣根がかなり低くなったような気がします。校長の小部屋は、写真エッセイをコンセプトに始めましたので、とにかく写真を撮って歩いています。最近は驚くほど自然でいい顔を見せてくれます。仰々しく一眼レフを構えるのではなく、スマートフォンで撮影するからそうなるのかもしれません。

(写真のレイアウトの仕方を教頭先生から習いました。便利です。)

 先日自宅に帰ったとき、次男が「父さん、校長先生どうなの?」と唐突に聞いてきました。話の中で「そういえば、オレ、高校の時の校長先生と喋ったことないし、顔も知らないわ」と。確かに1学年8間口の大規模校に通っていたわけですから、それもわかるような気がします。

 知られるということはそれだけ認知されたということですから、より一層身も心も引き締めていかなければなりません。

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学校祭の準備から

 放課後の学校祭準備。

 教員になって良かったな、と思うことのひとつは日々の生徒の様子を見て、自らの高校時代の記憶が身近に感じられることです。どんどん遠くなるはずの高校時代の記憶が意外と近いところにある・・・おそらくこの仕事をしていなかったら、日常的に高校時代のことを想い出すことはなかっただろうと思います。

 それともうひとつ。目の前の生徒たちの声や笑顔、部活動で汗を流す姿、教室で授業を受けている様子を見るたび、教え子たちと過ごした時間が鮮明に蘇ってくることです。あのときこうだったなぁ、そういえばあの子元気にしているだろうか、と。

 この日も生徒たちを見ていると、いつものように高校時代の学校祭準備のことや教え子たちと一緒に過ごした学校祭が重なり、懐かしい気持ちで一杯になっている自分がいました。

 恋人の話を聞きながら行灯を製作したこと、床にこぼした絵の具をそのままにして帰った生徒を叱ったこと、40人と私でスピッツの「チェリー」を大合唱したこと、ケーキを販売するJAZZ喫茶のお店を出したこと、学校祭のお疲れ様会で我が家の庭でクラス焼肉大会をしたこと、第二種電気工事士の放課後補習が終わってからスタートした準備作業、サボって帰った生徒がいて翌日の準備作業をストップしたこと、グランドで打ち上げられた花火、みんなで着用したクラスTシャツやパーカー・・・すべてがいい想い出です。

 準備期間はもう少し続きます。この瞬間の会話、笑えた言葉、教え合った振り付け、不足するものの買い出し、学級旗への色付け、一緒にジュースを飲んでの休憩、窓から入ってきた夕暮れの風、楽器の鳴り響き、分け合ったお菓子、床にこぼした絵の具、疲れて眠い授業、スマホで流して聴いた大好きな曲、買い出し途中で食べたアイスキャンディ-・・・その一つひとつが子どもたち一人ひとりの心に刻み込まれますように - 私の願いはただそれだけです。

 4月中旬以降平均500アクセス数でしたが、最近1000アクセス数となりました。御訪問誠にありがとうございます。本校生徒の活躍を今後もお伝えいたします。何卒よろしくお願いいたします。

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